<>日本小児循環器学会雑誌 第26巻 第5号 2010年

岩手医科大学医学部小児科学講座,岩手医科大学附属病院循環器医療センター循環器小児科
小山耕太郎

 私たちは,この医療格差の時代を生き延びることができるだろうか.医師不足の度合いは地方と都市部とで異なるが,地方のなかでも県庁所在地とそれ以外の地域の差が大きい.私の住む岩手県は厚生労働省が発表した都道府県別の必要医師数倍率によると,小児科,産婦人科のみならず,消化器内科や循環器内科などでも医師不足が進み,医療崩壊が最も深刻な自治体である.県内では,県都であり,岩手医科大学のある盛岡に医療機関と医師が集中し,宮古,釜石といった沿岸地域,二戸などの県北地域で医師不足が著しい.
 医師数の絶対的な不足が,医療費と医師数の抑制という誤った政策によってもたらされたのは間違いない.さらに,準備不足のままで施行された新医師臨床研修制度により,大学医局からの医師派遣に依存していた地域の公立病院・診療所から勤務医が引き上げる事態が生じ,残された医師の負担が増え,医師の不足と偏在に拍車をかけた.ようやく全国の医学部定員が増やされ,医学部新設の方針も示されたが,今後最低10年は医師の加重労働が続くといわれている.また,地方自治体の財政健全化政策の下,赤字に苦しむ公立病院・診療所は,無床化など規模が縮小され,地域間の医療格差は一層増大するだろう.地域医療再生のため私たちに何ができるのか.ヒントは医療崩壊の最前線にあるように思う.
 今年,「遠野物語」の発刊100周年を迎えた岩手県遠野市は,早池峰山の麓に田園が広がる人口3万人の農業と観光が中心の自治体である.盛岡から車で約1時間,沿岸の釜石へは40分,ともに峠越えの道である.住民の3分の1が65歳以上であり,年間の出生数は約100人である.地域に循環器系の専門医がおらず,また出産を取り扱う医療機関がないことから,高齢者や妊婦は盛岡や釜石への遠距離通院を余儀なくされていた.市は総務省の情報通信技術活用モデル構築事業の委託を受け,遠隔の都市部に住む循環器専門医と地域の医師,コメディカル,住民組織を結ぶ遠隔医療のネットワークを構築した.医師,コメディカル,患者それぞれの間で直接交わされる対話と,血圧,体重,コレステロール値などの健康データの集積・共有によって,従来の「先生にすべてお任せします」という父権主義的な医師と患者の関係から,患者自らが主体的に健康を管理し,増進する新しい医療への転換が始まっている.また,公営の助産院「ねっと・ゆりかご」を開設し,市の助産師が妊産婦と遠隔の産婦人科医の間に入り,モバイル胎児心拍転送装置を活用するなどして,きめ細かなケアを行っている.さらに遠野市は県立遠野病院と連携し,医療・福祉・保健が一体となった寝たきり高齢者の在宅ケアシステムに取り組んでいる.市の保健師とケアマネージャーが待つ患者宅を,医師,看護師,理学療法士,薬剤師,事務員が一緒に訪問し,心電図検査,血液・尿検査,X線撮影まで行い,会計もその場でしている.医師不足に悩んでいた遠野病院はインターネットでの募集にも力を入れ,医師に対する乗用馬や菜園の貸与など遠野市によるユニークな支援もあって,少しずつではあるが,地域医療や総合医に興味を持った医師が全国から集まってきている.
 遠野におけるこれらの試みを支えているのは,自治体首長や病院長,産婦人科医師らの先見性と指導力,医療・福祉・保健の専門領域を超えた連携,情報通信技術の利用などである.しかし,この新しい仕組みを持続可能な医療とするうえでより大切なのは,地域の住民・患者との対話から始まり,地域を越えて広がる協働ではないだろうか.病院や医師が住民と直接対話することによって,地域社会が健康や疾病に関する知識や技術を共有するだけでなく,病院の経営や医師の勤務状況など地域医療の現場に対する理解が深まり,コンビニ受診を控えるなど行動の変化にもつながっていく.「兵庫県立柏原病院の小児科を守る会」の活動はつとに知られているが,岩手県でも「県立釜石病院サポーターズ」「千厩病院を守り隊」など,医療崩壊が進んだ地域の住民が医療現場の実態を学ぶなかで立ち上がり,対話を繰り返しながら,病院を支援するネットワークを形成している.
 最近,新日鉄釜石製鉄所の縮小を機に産業が崩壊した釜石の地域社会が,企業誘致や地元企業の努力によって生き延び,復興していく過程を調査した社会科学の研究書を読む機会があった.それによると,希望とは,具体的な何かを,行動によって,実現しようとする,願望である.Hope is a wish for something to come true by action.そして,この希望をつなぐためには,地域内外における積極的な対話の積み重ねによるネットワークの構築が何より重要であるという.遠野や釜石など,医療の最も困難な地域にこそ,日本の医療を変革するための希望があるのではないだろうか.

【参 考 文 献】
1)熊坂義裕:医師不足の本質と再生に向けての私の提言.岩手経済研究 2010年10月号,pp4–9
2)岩手県遠野市ホームページ http://www.city.tono.iwate.jp/
3)遠野方式在宅ケアシステム.Medical Partnering 2010;48:1–4
4)朝日新聞 2010年7月10日 be on Saturday b1–b3
5)高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部「新たな情報通信技術戦略工程表」http://www.kantei.go.jp/jp/singi/it2/
6)東大社研,玄田有史,宇野重規 編:希望学[1] 希望を語る 社会科学の新たな地平へ.東京,東京大学出版会,2009,p xvi
7)東大社研,玄田有史,中村尚史 編:希望学[3] 希望をつなぐ 釜石からみた地域社会の未来.東京,東京大学出版会,2009,ppxvi–xvii